戦前戦中に軍政の暴走を止められなかった一つの要員は、社会を司るルールの中に、触れてはならない部分があったからである。治安維持法に基づく取り締まりは、その理由を説明する必要がない。天皇の意思と言葉に基づくとされれば、疑うことは許されない。その両者において、説明にならない説明として用いられたのが、「国体を護る」という言葉である。この言葉が出てきたら、いったい何が国体なのか、どう国体を傷つけたというのか、説明を求めたり疑義を挟むことは許されない。
民主主義の根幹は、すべてを相対化することである。何をどういう理由で秘密としたのか、その秘密指定は妥当だったかのか、少なくとも一定の未来(その秘密指定に責任を負う者がまだ生きているぐらいの未来)に検証できなくては、民主主義は失調する。民主主義でなければ何であるのかといえば、独裁政治か、宗教原理主義の体制である。理由のわからないルールの言葉にただ支配されるか、神の絶対的な言葉を受け入れて洗脳されるか、どちらかである。オカミに弱く、その場の空気に従いやすく、その空気を疑わない傾向の強い日本社会は、宗教国家の様相を帯びやすい。戦前の日本もそうだった。
秘密保護法下の社会では、何を自分たちは秘密にされ、知らないでいるのか、わからなくなる。機密に近い一部の行政機関の人間やメディアの人間だけが、うすうすと、どうやらあの関連のことを自分たちは知らされないでいるらしいと感じるだけで、社会の大半は、秘密にされていること自体を知らなくなる。何が秘密になっているのかを知らなければ、与えられる情報をただ鵜呑みにすることになる。大本営発表が機能するのは、社会がそのような状態になっているときである。安倍政権はすでに、この手法をとって政権運営をしている。肝心なこと、騒ぎになりそうなことは隠しておけば、何をしても今の世間は騒がない、と知っている。それを法の言葉としてルール化してしまえば、疑っている者たちをも封じ込められるというわけだ。
このような秘密保護法を、アメリカは制定することを求めている。民主主義を破壊しうる法を、民主主義を信奉するアメリカが要求しているということは、アメリカは秘密保護法下で起こる人権侵害を黙認することになるだろう。日本は、サウジアラビアやムバラク政権下のエジプトなどの「親米アラブ国家」のような存在になりかねない。
絶望的なのは、民主主義を破壊するこの法が、民主的な選挙の結果によって成立するという事実だ。秘密保護法案に賛成か反対かの世論調査では、反対の法が多数を占める。けれど、先週の内閣支持率は、50%を大きく超えている。日本の民主主義の岐路であるこの法案について、内閣支持率に結びつくほど重視している有権者は少数派なのだ。
私は民主主義という制度は、サッカーに似ていると思う。あるチームの中に、そのチームの方針について無関心な者が半数近くいたら、そのチームは機能しないだろう。このチームがうまく行かないのはチームを引っ張る選手がいないからだ、誰かもっと責任持って引っ張れよ、と選手たちが思っていたら、チームは崩壊するだろう。俺は守備の人間だから攻撃のことはそっちで決めてくれ、と思っている選手が何人かいたら、サッカーにならないだろう。守備陣が頼りないから俺が守備までする、と思って、攻撃の選手が守備までも一人で全部引き受けようとしたら、そのチームも勝てないだろう。チームが機能するというのは、それぞれの選手が自分の役割を100%こなすために、他のポジションの選手の役割を理解しようとし、話し合い、信頼と責任を作り上げたときに可能となる。たまにしか集まれない代表も、お互いに関心を持ち、異なる意見をぶつけ合うことで共有できるビジョンを作り上げ、本番のときだけでなく所属クラブでの日常から考え努力をし続けてこそ、チームの体裁を取り始める。