谷崎賞の受賞スピーチ
2018-10-11


 まずはこの作品を候補にしてくださった方々、また選考のために読んでくださった選考委員の皆様に、感謝を申し上げます。ありがとうございます。
 ご承知のように、この賞は候補作になっていることは書き手にも明かされないので、受賞した場合のみ、いきなり通知がくるわけです。ぼくはお電話をいただいた時、夏休みの旅行で飛行機に乗る直前でした。担当の編集者から「今お時間よろしいでしょうか」と言われた時、つい「うーん、長くかかりますかー?」と答えてしまいました。要件の内容を聞いた後の豹変ぶりといい、じつに感じ悪かったなと、思い返すたびに恥ずかしいです。すみません。
 おかげで、夏休みはとても気分よく過ごすことができました。旅行先で仕事もせずに、受賞の余韻にだけ浸っていられたわけですから。
 ところが、夏休みを終えてからが大変でした。例の「新潮45」の問題が起こったからです。受賞作『焔』は、新潮社の刊行なのです。
 今回の受賞でぼくが誇れることの一つは、編集者とのコラボレーションです。
 この本はあちこちに書いた短編小説を集めたものではありますが、ただ集めたわけではありません。編集者と数年越しの打ち合わせを重ねながら、作品集が一つの世界像を作り上げられるよう、いくつもの試みを行いました。作品の間にサブテキストを挟んだり、装幀の方にレイアウトを工夫してもらったり、それに合わせた装画を描いていただいたり。皆で相談と試行錯誤を繰り返しながら、それぞれの担当が持ち味を発揮してくれたおかげで、バラバラだった短編がコレクティブな力を持てるようになったと確信しています。
 この本の示す世界像は、私たちの生きるこの世が憎悪、憎しみに覆われていくことへの悲観と、そこからの離脱です。「悲観」と申しましたが、それは「諦め」を意味しません。むしろ憎悪に与しないための、拒絶です。
 にもかかわらず、まさにその憎悪が新潮社の雑誌を乗っ取ってしまった。新潮社への批判が相次ぐ中、ぼくの本についても、新潮社だから今は買うことはできない、と言われたりしました。
 けれど、ぼくが一緒に本づくりをした人たちは、憎悪に加担してはいません。そういうことに与しないという本を作っているわけだから。実際に、新潮社の文芸セクションは、「新潮45」を批判するツイートを引用する、という方法で、差別に加担しない意思を示しました。
 このやり方には、消極的だとか、責任逃れだとか、いろいろな批判もありました。でもぼくは、もしかしたらこれまで無関心だったかもしれない人たちが、おずおずとであろうが、批判の意思を示そうとしたのなら、それはまずは歓迎したいと思いました。
 差別やヘイトスピーチといった憎悪の目的は、世の中を敵と味方に二分して争いを拡大させることです。社会中が憎み合って、どこもかしこも敵同士になることを望んでいるのです。憎悪の目的をくじけるのは、憎み合わず、叩き合わずにいる姿勢です。憎しみに洗脳されたくないと感じている人は誰であれ、分断されずに協調しあっていくことが肝心なのです。
 文学の書き手たちは、「文学は善悪の彼岸にあるのだ」というような言い方や考え方を好みます。ぼくも基本的には、文学は世の常識や通念としての善悪には縛られないと考えています。けれど、最近いろいろと文学や芸術の暴力性として問題になっているケースは、その説明では正当化できないと感じています。

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