2013年5月31日(金)
2013-05-31


 私は文学は表現としては臨界に達し、ただ、その時代時代での切実さを言葉にすることに意義が残るのだと考えていたけれど、いとうせいこうさんの文学はその狭い見方をあっさりと破ってくれた。東京にいると南十字星は見えないが、沖縄ぐらいまで移動すれば見える。そこではそれは普通のことである。見えないからといって、存在しないわけではない。いとうさんは、文学と言われている領域とは違う領域での移動を重ね、あちこちにまだ発見されていない文学があることを確かめてきた。文学とはいとうさんにとって移動する領域の一つにすぎないが、そのことが、文学の人には見えない文学を見ることを可能にしてきた。そうして発見したあちこちの文学なるものに、いとうさんは虚心坦懐に感銘を受け、自分の生に還元し、自分を媒介として、文学へ移し替えようとした。それはいとうさんにとって自然なことだっただろう。だから、私は見たこともない、けれどとても普通に存在している『想像ラジオ』という文学に、驚愕してしまったのだ。初めて南十字星のある夜空を見たような状態だったわけだ。でもそれは普通に存在している空なのだ。
 いとうさんは、日本語の近現代文学について、きわめて原理的に考えてきた作家である。また、作品のテーマについても、徹底して考え調べ詰めないと書かない人である。何でも突き詰めてしまう性格なのかもしれないが、ともかく、一時の思いつきやひらめきで書く人ではない。徹底してきつき詰めた後での思いつきしか信用しない書き手だ。
 一方で、いとうさんは ヒップホップミュージックの地平も切り開き、DJ、テレビや舞台、笑い、仏像を見ること、植物を見ること、編集すること、その他私の知らない言葉の領域で活動をしてきた。小説とは、その中から出てきた表現形態の一つである。ヒップホップに疎い私はそれについてコメントする能力がないが、いとうさんのラップについてのインタビューを読んだときは鳥肌が立った。日本語の極北まで行った人なのだということを、痛感した。小説は詩的言語で成り立っているが、いとうさんは小説のベースとなる詩的言語を、ラップで開拓し尽くしているのだと感じた。そこで渉猟された日本語は、浄瑠璃や文楽や歌舞伎といった、今でも生きている伝統芸能の領域にまで及ぶ。伝統だろうが今生まれたものであろうが、生きて流通している言葉の可能性と限界を突き詰めたのである。
 こういったところで見つけた文学を、いとうさんは小説として表した。それは、小説とは異ジャンルの人、例えば劇作家等が小説を書いてみるとか、小説家が他の表現者とコラボレーションするとかいった試みとは、根本的に異なる。なぜなら、いとうさんは小説を原理的に突き詰めてもいるから。特に、もう20年近くになるであろう文芸漫談は、その研究のなまなましい現場だ。
 こうしていとうさんは、人が文学だと思っている輪郭を破り、見たこともない大きな文学を表した。しかもいとうさんの文学には、輪郭がない。さまざまな文学なるものが表現の形態としても内容としても取り入れられ、なおかつ輪郭は曖昧だ。きわめて風通しがよくて心地よい。
 私はここに倫理を見る。まだその言葉の外側に文学なるものがあり、それが入ってくる余地があるから、閉じない、という倫理。その「外側にある文学なるもの」とは、読み手の側にもある。また読み手のほうも、自分の輪郭(無意識)を突破されうる。それは『想像ラジオ』の表す生死観そのもののあり方である。

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