2012年7月29日(日)
2012-07-29


     憎悪と復讐の政治学

 一昨年に『俺俺』という小説を書いたとき、オレオレ詐欺がどうして成り立つのか、そのメカニズムを調べたことがある。
 その極意(?)は、何者かにうまく成りすます演技力ではなかった。肝心なのは、いかに相手をパニックに陥らせるか、なのだという。頭が真っ白になったら思考が止まるからである。思考が止まれば、疑うこともない。思い込んだまま、頭がロックされてしまうのだ。少し冷静に考えれば嘘だとわかるような筋の通らない話でも、たやすく信じてしまう。
 震災から一年が過ぎて、私は日本社会がそのような緩いパニック状態にあるように感じている。私自身、震災以前より感情的で涙もろく、怒りや悲しみへの歯止めがききにくくなっている。つまり、私たちは詐欺にかかりやすい状態にあるといえる。
 そんな私たちの不安定な精神状態を土壌にして成長しているのが、橋下徹大阪市長が率いる維新の会であろう。
 なぜ橋下氏は、あれほど攻撃的で挑発的な態度を取るのか。発言も行動も、彼に対して批判的な者たちの神経をことさら逆撫でするようなものが多い。私もいちいち頭に来ている。そして実際、報道を始めとして、ネット上にいたるまで、橋下氏の言動に対する激しい怒りの言葉が飛び交っている。
 批判派からすれば、それは自然な反応だろう。しかし、詐欺にかかりやすい心的状態にある私たちは、その怒りによって、もしかしたら頭をロックされているのかもしれない。だとしたら、その怒りは、意に反して、相手の思う壷なのかもしれない。
 私には、怒れば怒るほど、維新の会の土俵に引きずり込まれているように感じる。そして、その土俵上で、橋下氏の言動に胸のすく思いをしている支持者たちに襲いかかられ、餌食となるのだ。
 橋下氏は、熱狂的な支持者が世に向ける憎悪を吸い上げて、土俵を作っている。その憎悪とは、これまできれい事を言いながら自分たちを無視してきた連中など理不尽な目に遭って苦しめばいい、というサディスティックな復讐の感情だ。橋下氏は、その憎悪を太らせる方向で行動を決め、言葉を選ぶ。だから、しばしば論理的な一貫性を欠くし、法的な裏打ちさえ怪しいこともある。電力会社への圧力も、組合への締めつけも、その憎悪と復讐の感情を背景に行われているように、私は感じる。
 そうして増幅された橋下支持者の暴力的な衝動が見えやすい形で表れているのは、維新の会の政治家たちが、卒業式をめぐる騒動で見せた極端な姿勢だろう。カリスマを中心とする閉鎖的な集団の中で、メンバーたちがカリスマの行動をエスカレートさせた形で真似をし、暴走していく、という典型例ではないか。オウム真理教や連合赤軍の例を挙げるまでもなく、このパターンを、日本社会はすでに何度も経験している。
 憎悪を汲み上げて熱狂的な支持を得る集団と、その存在に苛立って怒りを募らせる批判者たち。直情に支配されているという点では、橋下氏を支持する側も批判する側も同じだ。橋下氏は、分断統治を行うかのように、この両者の怒りを激突させる。
 この構図を無効にするには、地道な方法しかない。まずは挑発に乗らないこと。暴言と思えることでも、無視すればよい。特にメディアの判断は重要である。そして、行政の長として行っていることや政治家として打ち出してくる政策の、論理的な破綻や法的な不備を、冷静にしつこく指摘し、批判し続ける。

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