2012年3月7日(水)
2012-03-07


この社会で表現は成り立つか

 二〇一一年九月に東京で行われた脱原発の六万人デモに参加した。そのとき歩きながら考えたのは、「この社会で表現は可能か?」ということだった。一般参加のコースは、初めてデモに参加しているらしき年輩の方々や家族連れが多く、シュプレヒコールもなく、ただ黙々とのんびり散歩しているような歩き方だった。私にはそれが新鮮であり、心地よかった。デモは声を張り上げることだけが表現ではない。むしろ、人間の集団そのものの存在感がその表現力の核心だ。ありきたりなスローガンをいかにもデモっぽい口調で連呼するよりも、押し黙って大量の人が歩いていることの表現力のほうが、ずっと強い。なぜならそれは見慣れない光景だからだ。
 私が、この社会で表現が成り立つのだろうか、と懐疑的になるのは、「見慣れない光景」へ踏み出すことの恐怖が社会に蔓延していると感じるためである。逆に言うと、現状は、「見慣れた光景」へ身をゆだねるようにしか表現がなされていない。「見慣れた光景」「聞き慣れた言葉」から逸脱することへの恐怖が、この社会を縛っている。
 ちょうど今、私は「路上文学賞」という賞の選考をしている。昨年に有志と手作りで始めた、路上生活者を対象とした賞で、今年で二回目だ。書く文章は、小説でもノンフィクションでも何でもいい。
 創設にあたって最も懸念したのは、書き手たちが世間の目線を気にし、世間の抱くホームレス像から逸脱してバッシングされることを恐れるあまり、世の通念となっている悲惨なホームレス生活を「見慣れた光景」の物語として書いてしまうのではないか、ということだった。自分たちが社会の攻撃性を誘発しやすい存在であることに、ものすごく敏感なのだ。
 ふたを開けてみれば杞憂に終わった。そこには、自分たちのこなれない言葉で、自分たちの現実が描かれていた。とてつもないユーモアさえ含んでいた。まぎれもない個人の表現で、それを受けとめている読み手の私は、確かに人間とやりとりしている手応えを感じることができた。
 一方で私は、文芸誌の新人賞の選考委員も務めている。最終選考に残る作品のレベルは高く、どの書き手も書く力については申し分ない。にもかかわらず、いつも一抹の空しさを覚えるのは、「見慣れない光景」へ踏み込むことの恐怖に屈し、どこか「見慣れた光景」を書いてしまっているからだ。
 それは数年前に大学で創作を教えているときにも感じ続けていた。短篇を書いてお互いに批評し合う授業だったのだが、評価の高い作品が現れると、次回からその作品に準ずるような形の習作が増える傾向があった。
 そのときの評価としてよく使われるのが、「わかりやすくて良い」という言葉だった。「見慣れているから理解できる」という意味に、私には聞こえた。書き手たちは、ここで「わかりにくい」と批判されることを極度に恐れていた。「見慣れないものは理解できない」として、拒絶されるのだ。
 おそらく、創作をしたい人たちは、どこかでそのような息苦しさに抗いたくて書いているはず。なのに抗いきれず、「見慣れる」ことで受け入れられるほうへ折れてしまう。路上にいる人たちは、書き慣れず、折り合いの付け方が少し不得手であるがゆえに、表現できてしまうのかもしれない。
 相手の目線、他人の考えを生きることで、かろうじて受け入れられる。だが、そこには個人としてのやりとりはなく、ただ踏み絵のように見慣れた光景を背負う孤独な姿しかない。自分の真の気持ちも存在も表す表現が、成り立たない。

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