大相撲の土俵女人禁制問題について
2018-04-05


 2007年から11年までに噴出した不祥事の後、相撲協会は明らかにそれまでの相撲協会から変わろうと、さまざまな努力はしていると思う。多々、認識の甘い点があるため、もっと徹底して変えなくてはならないものを変えられないでいたりして、その最大の事例が、相撲の現場における暴力容認、鉄拳制裁は必要悪、みたいな意識だろう。日馬富士の事例から垣間見えたのは、これは日馬富士の性格の問題ではなく、相撲界全体でまだ共有されている暴力文化の問題だな、ということだった。その後、細かく、暴力の問題が発覚しているのは、そういうことだろう。同時に、それが相撲界の中でも問題視されるようになったから、顕在化することも多くなったのだろう。その意味では、変わろうとする意識が形を伴いつつある証拠であり、いいことだと思う。
 ただ、顕在化するたびに、先に述べたような、たんなる苛烈な集団いじめでしかないメディアと世間からのバッシングにさらされる。そして事件の当事者が廃業に追い込まれていく。バッシングの欲望は、ターゲットの敗北を眺めて優越感に浸るのを目指しているから、そこまで追い込まないと気が済まない。
 私はここにはものすごい違和感がある。こういうあり方はおかしいし、あってはならないと思っている。
 これはあくまでも私の相撲観だが、相撲は社会的なセイフティーネットの役割をどこかに持ち合わせていると思う。家族や地域社会で支えきれない、端的に言えばはみ出し者たちを10代半ばから預かり、生活を含めた居場所としていく。かつての芸能の側面が強かった時代は、よりその色が濃かっただろう。今はだいぶその色は薄いけれど、関取や役付にはなれない力士や行司、呼び出し、床山たちの世界には、まだそういう要素が残っていると私は感じている。相撲部屋が疑似家族制なのは、未成年のはみ出し者を育てる場所としての家族環境、という意味合いもあっただろう。
 そこで重要なのは、失敗を許す環境である。指導の仕方は硬軟いろいろあるだろうが、失敗から学ばせて成長させていく場であることが、個々人の尊厳を作っていく。はみ出し者たちも多くいる集団だから、派手な失敗も多いだろうし、時には度を越すこともあろう。でもそこで相撲界から放逐するのでなく、学ばせていく。その機能が大相撲にはあると思うのだ。
 しかし、今のメディアと世の態度は、これと大きくかけ離れている。一度失敗をした者は、相撲界から追放しないと気が済まない。ここには、相撲界をよくする意思も、失敗した個人を学ばせて経験値を上げようという意思も、皆無だ。あるのは、人が落ちていくのを見て喜びを感じるという嗜虐性のみだ。
 もちろん、同じ過ちを繰り返し続けるとか、度を超しすぎた事件を起こすとか、その人の経験や立場など、勘案するべき事項はある。けれど、まだ若く経験の少ない者の過ちに関しては、学んで立ち直らせることに全力を注ぐべきだし、相撲界が蓄積させてきたその経験は活かすべきなのだ。それが社会的包括だと思う。
 その中で、では相撲界がどんな基準で、過ちを判断し、どの方向に導くのか、その点がいまは本当に問われるべきこととなっている。そして私の大きな不満と違和と苦しさもそこにある。
 鉄拳制裁の問題に関しては、徐々にではあるけれど、改善して行こうとしているので、見守りたい。
 けれど、差別の問題は手付かずだ。

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